雑音。
私は人が好きです。
でも時々その声に傷付いて悲しくなったり、疲れたり、憤ったり、苦しんだりする事があります。
そんな時、数年前に行った奈良県の吉野の山の上にある『都祁水訳分神社』(つげみくまりじんじゃ)を思い出します。
当時も「雑音」に疲れていたのを覚えています。
静かに佇む建造は長い長い年月を纏っており、その背後に聳え立つ古木の偉容は歴史の深さを感じさせました。
青々と茂る木々、そよぐ風、頭上に広がる青く高い空。。。
そして無音。
完全な無音。
風は感じるのに葉を揺らす音も、鳥の鳴き声も一切聞こえない無音の世界でした。
無い音が鼓膜を圧迫する不思議な感覚。
あれだけ気になっていた「音」がまるで初めから存在していなかったのではないかと疑う程。
別の世界、別の時空に迷い込んでしまったよう。
今思い出しても、あれは夢だったのではないか?と半信半疑。
もしかしたら「音が消えた」のではなく、私自身が無意識に「音を消した」のではないか?とも思います。
そう考えると、悩まされていた『雑音』というのは他でもない自分自身の心の声だったのかもしれません。
だとすると私が水分神社で音が消えたと思った(思い込んだ?)ように自分の中の『雑音』を『快音』に変換していけたら。。。そんな風に思います。